三月一日。今日は、美坂香里の誕生日だった。
いや、正確にはそれはもう昨日の出来事か。
さきほどからカチカチと静かな騒音をたてている壁掛け時計は、すでにその短針をTとUの間にまで進めている。
それ以外に音はない。
ここ水瀬家のリビングには、確かに人間が一人いるのだが、その人は何もせず、ただただ虚空を見上げている。
瞳は開かれているので、眠っているわけではない。
だが照明も点けずにそうしているので、その瞳に何かが映ることもない。
本当にただ、何もない暗闇を見つめているだけなのである。
家に帰ってきて早々、食事も摂らず、お風呂にも入らずにそうしている。
自分の部屋がある二階に上がる気力さえなかったので、着ているものは学校の制服のままだ。
暖房の効いた室内だというのに、ブレザーすら脱いでいない。
しわができてしまうのは確実だが、当の本人がそれを気にすることができるほどの神経を持ち合わせていなかったので、秋子も言及はしなかった。
何を話しても「ああ」とか「はあ」としか返事をしなかったのだから、かなりの重症だったと言える。
今ではある程度気持ちが落ち着いてきているのだが、まだ眠れるほどではないだろう。
きゅるるぅ〜……
……お腹が鳴った。
そういえば、百花屋でジャンボミックスパフェDXを少しとコーヒー一杯を飲んでからは、何も口にしていない。
その人物は溜息を吐きながら立ち上がり、闇の中を一歩一歩を確かめながら、ゆっくりと歩いて台所へ向かう。
まだそこまで思考が回らなかったのかそれともただの意地なのか、照明は点けなかった。
足のつま先がテーブルだかソファだかわからない物に当たった。かなり痛い。
堪らなくなって、その場にしゃがみこんで足の指先を手の平で包み込む。
なぜこんな目に遭わなければならないのか。
(そうだ、電気……)
だが、その痛みのおかげでだいぶまともな思考が働くようになった。
そうして部屋の明かりを点けようとして立ち上がった瞬間、視界が真っ白に染め上げられる。
「くああっ!!」
実際には部屋の照明が点けられただけなのだが、今まで暗闇の中にいた者にとって、その光は目に耐えがたいものがある。
あわてて目を閉じて手で押さえながら下を向き、瞬きを繰り返してだんだんとその明るさに目を慣らしていく。
「……祐一さん? ごめんなさい、大丈夫でしたか?」
秋子の声がリビングに響き渡る。
どうやらこの明かりを点けたのは彼女のようで、その片手はスイッチへと伸ばされたままだ。
足の痛みに気を取られていた祐一は、彼女がこの部屋に来ていることに気が付かなかった。
「……いえ、大丈夫です。すぐに慣れますから」
相変わらず下を向いたまま目をぱちくりさせながらも、声だけははっきりと答える。
そう強がって見せてはいるものの、祐一の目はなかなかこの部屋の明るさに慣れてくれない。
「そんなことより、こんな時間にどうしたんですか? それとも、まだ遅くなかったりします?」
時計も見えないほどの暗闇の中で長時間何もしないでいたために、祐一の時間の感覚は狂ってしまっている。
「いえ、時間はもう一時を過ぎてますけど……物音がしたので、祐一さんがまだ起きているのかと気になって」
「ああ、それはすいません」
祐一はまだ眩しそうに目を細めながら、秋子のほうを見る。
きゅるる……
「あ……」
またしてもお腹が鳴ってしまい、祐一は恥ずかしそうに秋子から顔を背ける。
秋子にはそれで祐一の状態が伝わったようだ。
「お腹がすいたんですね。待っててください、すぐに軽いものを用意しますから」
「……ありがとうございます」
二人は食卓に向かい合って座り、祐一は秋子が用意した鮭茶漬けを食べている。
インスタントでもないのにお茶漬けに鮭が入っているあたり、料理好きな秋子のこだわりが垣間見える。
祐一はそれを流し込むようにして手早く食べ終えると、茶碗に箸を乗せて「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「おそまつさまでした。今日はもう遅いですからぐっすりと眠って、明日に備えて――――」
「きっとぐっすりとなんて眠れませんよ、今日は」
秋子の言葉を遮るようにして言い放ち、祐一は頬杖をついて溜息を吐く。
「祐一さん……」
そんな祐一に対して、秋子は祐一の家族として、子を想う母親のように優しく話しかけた。
「祐一さん。辛いことや苦しいことを自分の中に溜め込んでも、決して良い方向へは向かいませんよ?
むしろ、悪い方へと行くばかりです。
たとえ何の解決にもならないとしても、誰かに話すだけで、気持ちが軽くなることだってあります。
……もしよかったら、私に話してもらえませんか? それとも、私なんかでは役不足でしょうか?」
最後の一言を口にして、自分は卑怯だ、と秋子は思う。
心優しい祐一のことだ。こう言ってしまえば、自分に話してくれることは間違いない。
まさか祐一が自分のことを役立たず扱いするなんて、夢にも思えないのである。
しかし――――
「ええ。役不足ですね、秋子さんじゃ」
「……え?」
その夢にも思わなかったことが、現実におきた。
これには流石の秋子でも動揺を隠せない。
二つの瞳孔は見開かれ、信じられないという表情で、正面に座っている祐一を見る。
しかし祐一は、それを気にした風もなく言葉を紡いでいく。
「秋子さんは、俺の家族じゃありませんから」
「そんなっ!?」
その言い草は、まるで秋子を嬲るようだった。
いや、事実祐一は、秋子を貶しているのだろう。
普段の祐一ならばたとえどんな理由があったとしてもそんなことはしないため、その真意がわからない秋子はますます混乱していく。
「そんな。祐一さんは、私を……私たちのことを、家族とは思ってくれないんですか!?
一緒に暮らしてもう二ヶ月になるというのに……祐一さんにとって、私たちはその程度の存在だったんですかっ!!」
まもなく夜中の二時になるというのに、秋子は声を大きくせずにはいられなかった。
それほどまでに動揺している。混乱している。
夫を早くに亡くし、母子家庭のなか頑張ってきた秋子にとって、『家族』という言葉は特別なものだ。
自分は祐一のことを家族だと思っているのに祐一はそうは思ってないと聞かされては、喚かずにいられるはずがなかった。
なのにその慟哭を向けられた祐一は、努めて冷めた目をして秋子を眺めている。
「なら聞きますけど……一緒に暮らしてもう二ヶ月になるというのに、オレが……『私』が女だということに、気が付いていましたか?
いくら隠しているとはいえ、本当の性別に気付くことすらできないなんて……
秋子さんにとって、私は……家族とは、その程度の存在だったんですか?」
「えっ……!?」
祐一が、わざと秋子の言葉を真似て言い返す。
その言葉には怒りも嘲りも含まれていなかったのだが、秋子はそれに気が付くことさえできなかった。
水瀬母子の絆の強さは自他共に認めるほどのものであるのに、祐一はそれを頭ごなしに否定したようなものなのだ。
それは、到底許容できるようなものではない。
秋子にとって、家族に対する愛情は絶対的なものであり、それは祐一や真琴にも同じことが言えるはずだった。
にも関わらず、目の前にいる自分の甥はそれを否定し、あまつさえ『その程度のものだったのか』と蔑んできている。
もしその明確な理由が見当たらなかったら、秋子はまた我を忘れてまた叫んでいただろう。
しかし、祐一はその理由を言っている。
だから秋子は、とりあえずその真偽を確かめなければならないと思った。
自分を納得させるのは、その後でいい。
「祐一さんが女って……どういうことですか?」
「そのままの意味ですよ。私はあなたの甥ではなくて、姪なんです。
そのことも含めて、すべて話します。お母さんも、秋子さんには話してもいいって言ってくれましたし。
……もちろん、話さずに済むのならそれに越したことはないんですけどね」
「……はぁ」
もはや、秋子は唖然とするほか仕方がなかった。
祐一の話は、あまりにも秋子の予想からかけ離れすぎている。
常軌を逸していると言ってもいい。
しかし、その重要度は限りなく高いと言える。
自分の方からは下手に質問したりせずに、祐一のペースで話させてやった方がいいだろう。
それでも聞きたいことがあったなら、祐一の話が終わった後で質問すればいい。
秋子は持ち前の冷静さを取り戻してそう判断し、祐一の発言に疑問を残しつつも、次の言葉を待つことにした。
「あぁそれと、私は祐一ではありません。私の名前はユウナ……祐一では無いと書いて、祐無です」